純子稲荷神社 茅場町 八丁堀

じゅんこいなりじんじゃ

御鎮座 元文二年(西暦1737年)

Local tutelary deity JUNKO INARI SHRINE
Establish AD 1737[ Tokugawa period]

純子稲荷神社 茅場町 八丁堀

学芸成就、家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣

純子稲荷神社 茅場町 八丁堀

御由緒

御鎮座

元文二年(西暦1737年)

御神璽

伏見稲荷大社

御神名

純子大神

御霊神

  • 宇迦之御魂大神

  • うかのみたまのおおかみ

  • 左田彦大神

  • さたひこのおおかみ

  • 大宮能売大神

  • おおみやのめのおおかみ

  • 田中大神

  • おおみやのめのおおかみ

  • 四之大神

  • しのおおかみ


祭事

初午祭 二月十一日

御縁起

純子稲荷神社は、長禄元年(1457年)、太田道灌が千代田城(竹橋北の丸―のちの江戸城)築城の折、守護神として京都伏見稲荷を勧請して城地内・北の丸に創建した”千代田稲荷神社“の縁起をひき継いでおります。
 千代田稲荷神社は、天正18年(1590年)徳川家康公の江戸城入城後、江戸城(現皇居)内の紅葉山に遷座され、更に、慶長8年(1603年)の江戸幕府の開府に先立ち、天下普請・城地拡張のため、開府前年の慶長7年(1602年)、家臣 長野又四郎により豊島郡千代田村(現・常盤橋)、後の北町奉行屋敷の土手堤に遷座されました。城外への遷座後も、幕府の鎮守神として、又江戸の安泰を祈願する千代田稲荷神社として格式高い祭祀が行われたと伝えられています。

その後、享保6年(1721年)徳川八代将軍吉宗公のご尊意により、千代田稲荷神社は城下の鎮守と庶民愛護の祭神として日本橋小伝馬町(現小伝馬町2丁目)に遷祀されました。
 その後、千代田稲荷神社が城下へ御遷座された慶事に因み、当地の町奉行組屋敷諸士・町衆より現在地(亀島・北島町=現在の茅場町2・3丁目)への稲荷神社建立の勧請が行なわれ、元文2年(1737年)、伏見稲荷の御神璽を祭祀する千代田稲荷の御分霊を御霊神として、純子稲荷神社が当地・亀島河岸(現在の茅場町三丁目十三番地)に創建・鎮座されました。

純子稲荷 御名の由緒

神社の御名命名は、町奉行のおとりなしにより、当地の細川越中守(兜町二)、松平和泉守(兜町一)、松平越中守(八丁堀)、松平越前守(新川)の司掌職・九鬼式部少輔(藩邸・現兜町・坂本町公園)が、当地が財宝保全の瓶かめ造りの名地でもあったことから、亀島(瓶島かめじま)の町民の請いを入れられ、“純心な精神を子々孫々に伝え遺すにふさわしく”との意をもって、“純子稲荷神社”と命名が行なわれ、爾来、町奉行諸士、与力、同心、町衆の守護神として祀られ、御神徳高い稲荷五柱大明神として崇敬殷賑を極めたと伝えられています。

明治維新後も亀島河岸の米穀問屋・北島町の町民により祭事が引き継がれ、殷賑を極めておりましたが、大正12年9月1日(1923年)の関東大震災により社殿は焼失、その後昭和4年(1929年)に再建されましたが、昭和20年3月10日(1945年)の東京大空襲により再び烏有に帰しました。

戦後、昭和27年4月28日(1952年)の占領解除まで再建ならず、他日の再建を期しつつ、昭和40年4月(1965年)より、純子稲荷神社崇敬会により茅場町二・三丁目町会員(旧亀島町・北島町)を中心に浄財寄金等の再建計画が進められ、昭和48年4月20日(1973年)、京都・伏見稲荷大社より御分霊を拝領し、戦災焼失後二十八年の歳月を経て、盛大に再建・遷座式典が挙行されました。ここに、元文二年の創建鎮座以来の御由緒を引継ぎ、広く地域ならびに町内の守護神として奉安され、その御神威は参詣者の崇敬・景仰を集めるところとなっております。
[尚、純子稲荷神社落慶と同時に、純子稲荷神社崇敬会社務所―茅場町二・三丁目町会会館も竣工しました]

当地のこと

日本橋茅場町二・三丁目(旧・亀島町・北島町)

江戸初期、江戸・前島埋立て事業直後、当地は寺社地として下付され40余の寺社がありましたが、武家屋敷の用地不足・土地確保の必要性から寛永12年(1635年)、寺社は浅草・深川・本郷・三田の地への転地令により移転し(玉円寺一社のみ現存)、与力・同心の組屋敷地、武家地・町人地として整備されました。又、当地には、国学者・賀茂真淵、国学者・加藤千蔭、村田春海、日本地図を完成させた伊能忠敬、など多くの文人、儒学者、医者が居住する”文化人村”でもあり、幻の浮世絵師・東洲斎写楽も居住していたといわれています。

亀島河岸

また一方で、当地は日本橋川の分流・亀島川に面しており、江戸以来、”亀島河岸”として荷揚地・土蔵地・作業地としても栄え、米穀問屋・建築材・生活雑貨・生鮮食等の舟運による交易が盛んで、当時から多様な商人・職人が居住しておりました。
文豪 谷崎潤一郎著『幼年時代』より
  • 「私の家の近所では、同じ町内の明徳稲荷、亀島町の純子稲荷、蛎殻町の銀杏八幡、水天宮などで、毎月それぞれに一度はお神楽が奏せられた。」
  • 「東京市内には寿々女連の他にもいろいろな一座があったことであろうが、………私はまた、この連中が稀に亀島町の純子稲荷へ出たのは知っているけれども、………」

地図

東京都中央区日本橋茅場町3-13-6
東京メトロ東西線・日比谷線 茅場町駅
1番出口(日比谷線ホーム)徒歩約2分